一日の終り

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 二十余年


 ほど前に車の免許を取って、二、三年で運転するのをやめてしまった。更新はしているので当然ゴールドである。今はバイト先の社員証などがあるが、フリーで仕事しているときは何者であるかは免許証や保険証が身分証明だった。フリーというのは仕事の関係性の中だけで社会性を持つ言葉で、一歩そこから外れたら無職とよく似たものだ。


 で、なぜ車の運転をやめたかと言えば一番大きな理由は性に合わないからだった。二番目が、お酒を飲みたいからであった。飲酒運転はできない性分で、そういう意味ではお酒が入ると気が大きくなるタイプではなかったみたいである。逆に「運転するなら飲むな」をかたくなに守って、運転をやめてお酒をとったということだ。


 お酒を飲んでいるときには、飲んで運転している友人の車の助手席に座ることはあった。やっぱり気が大きくなっていたのか......しかし、アルコールを飲む飲まない、と関係なしに「自分だけは大丈夫」という気持ちは誰しも持っているものだ。そうでなければ、人は生きてはいけまい。世間は不慮の事故のニュースに事欠かない。これが「わが身にふりかかるかも」と常に気にかかりだすと、日々の暮らしはなり立つまい。


 しかし、お酒をやめてから、この「自分だけは大丈夫」と、持っていないと日々の暮らしが立ち行かないあいまいで不確かで何の保証もない「確信」が少なくなってきたような気がする。お酒をやめて以降、徐々にだが、まあ今日も一日無難に終えるだろう的あいまいだが安心めいた日々は少なくなってきている。


 毎日、毎日、車に轢かれないだろうか? この電車は脱線しないだろうか? このビルから何か落ちてこないこないだろうか? と不安がってなどいないが、ぼんやりと「ああ今日も生きていたなあ」と思ってブログを更新している。あいまいであっても不確かであっても持っていれば安心できる何かを失った気がする。ま、年と言えば年のせいですか。朝に礼拝、夕べに感謝、まではいかないが。ま、無事だったなという一日の終わりの安息が、死ぬことに近づいているなあ、という感覚と地続きになってきているのだ。


 でも、アルコール依存症真っ最中を続けていたら、このような加齢とともに芽生える自然な感覚は持てなかっただろう。ただ、依存症を経ただけに、持ってしかるべき「あいまいな安寧」という保障感覚は人より多く喪失したと実感している、今日このごろ。ま、そんなこんな。遅くなってしまった、もう寝よう。









只今のながらCD

LIVE AT WOODSTOCK / JIMI HENDRIX
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by alglider | 2009-07-14 20:58 | アルコールと自由 | Comments(0)

さびしさを糸でかがればかぎ裂きのかたちしてをり棘のあるらし


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