切実に願う 2

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22:48

 中原中也


 の「羊の歌」の一節。


 Ⅰ 祈り

 死の時には私が仰向かんことを!

 この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!

 それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、

 罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。

 あゝ、その時私の仰向かんことを!

 せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!



 マンションの三軒隣りの人が昨日亡くなった。一昨日、夜中に救急車が来て、娘さんが「お母さん、お母さん」と叫んでいた。私の娘さんより少し若いだろうか、ということはお咲さんより若いと思う。


 自分の死が突然やってくるか、徐々にやってくるか。そのとき、諦めているか、満足しているか、じたばたしているか、それは分からない。


 分からないけれど、高校生時代に中原中也を読み始め 「Ⅰ 祈り」 が自分自身の臨終のイメージになった。望んでどうなるわけでもない。どうなるわけでもないが、それが「生」の中断であったとしても全うであったとしても、たぶん「私は私が感じ得なかつたことのために、罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ」という感覚は揺るがないと思う。そのぐらい、この詩は私に沁み込んだ。寝る前に仰向きになって、臨終のまねごとをして、ときどきこの詩を思い出す。


 そこで、昨日書いた「人が生きていく時、力になるのは何かっていうと、―≪自分が生きてることを、切実に願う誰かが、いるかどうか≫だと思うんだ。―」という一文。


 この言葉は双方向だ。「自分が他人の生きることを切実に願う」と「他人が自分の生きることを切実に願ってくれる」とだ。人の世には両方が必要で、バランスが取れないときもあるだろうけれど双方が要る。


 で、中原中也の詩を重ね合わせると、私は「他人が自分の生きることを切実に願ってくれる」のは少しでいいし、ささやかなものでいい。私はそれでいい。多く願ってくれれば、それは少し重たく感じるだろうし、申し訳なく思うだろうし、やはり「感じ得なかったこと」という感覚は残り、切ないだろう。卑怯のような気がするもするが、それより「自分が他人の生きることを切実に願う」こと、「切実に願える」ことができる自分を望んでいる。そうあろうと思っている。それが「伝えること」、つまり私の歌のもとになっている。というのは、お酒をやめてから短歌を始めたからだ。つまり、お酒に狂っていたときは自分の「生」にも他人の「生」にも無縁無頓着であったのだ。


 それがお酒をやめて気づいたことだとも言えるし、高校時代から感じていた「素」に戻ったとも言える。そんなこんな、切実に願うの二日目。






只今のながらCD

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Commented by ya at 2009-07-30 01:15 x
ごうまーん
他人をどれぐらい想うかは、想う当人が決めること。

ダカラヲトコハイヤナノヨ

自分は切実に願いたいけれど切実に願われることには注文をつけたいだなんて。

サフイフヲトコニカギツテヒトイチバイキズツキヤスイノヨ
アーナンギナンギ(念仏)
Commented by ははは at 2009-07-30 08:21 x
そうだそうだ、傲慢。

結局は、じぶんのことしか考えてない、じぶんさえよけれがいいって人間ばっかなんだよ、君たち。ちっせえちっせえ。
Commented by おぽんち at 2009-07-30 16:24 x
ごぶさたしております。

中也のこの詩、私も好きです。

sutanka拝読しました。

安寧の言葉なくせど手を広げ海の水平たもちてをりぬ

このうた、いいなあ…
Commented by 辰巳泰子 at 2009-07-30 19:13 x
わー。すみません。わたしがいちばんごうまんですた、、
Commented by すずぼん at 2009-07-30 19:24 x
パンタタさん、私もすごくよくわかります。共感持ってます。

願われるのは少しでいい、という気持ち、それは相手に求めているんじゃなくて、自分の中に持っている痛みのようなものだと思うのです。
それを抱えて生きていくこと自体が、せつないです。
自分が切実に願うその人も、少しでいいと思っているかもしれないのだから。

嗚呼。願うとは、なんとせつないことでしょう。
Commented by パンタタ at 2009-07-30 21:54 x
yaさんへ
書き込まれたことに沿って、
いろいろ考えるところがありました。
今日は無理ですが、メールか日記の更新で。
念仏はありがたく頂きました。
ポケットに念仏を。
Commented by パンタタ at 2009-07-30 22:01 x
はははさんへ
はじめまして。
書かれていることは一般的に流布する捨て台詞なのでよく理解できますが、
「君たち」の「たち」って? なんです。「たち」って。
どこのどなたか知りませんが、コピペしておいて、
「ははは」さんのコーナーを作ってもいいかなって思いますので、
お返事まってます。
Commented by パンタタ at 2009-07-30 22:03 x
辰巳泰子さんへ

上記、コメントレスにて。
Commented by パンタタ at 2009-07-30 22:07 x
おぽんちさんへ
お久しぶりです。勉学に励んでおられるようですね。

中也のこの詩をご存知でしたか、そんな言い方失礼かな。
高校時代から忘れられない詩です。

安寧の言葉なくせど手を広げ海の水平たもちてをりぬ

この歌は、写真家杉本博司さんの「海景」シリーズに触発されたものです。
杉本さんの作品を見る機会があれば是非ご覧になってください。

短歌、いいなあ、と言ってくださりありがとう。
Commented by パンタタ at 2009-07-30 22:12 x
すずぼんさんへ
ああ、吹雪の中でウイスキーを首に括りつけた救助犬に出合ったようなお言葉、ありがとうございます。
って、私、アル中だから飲めないや。
過剰に願って迷惑をかけてきたことも多いし、
気付かなかったり、願いを受け止める自分の容量が小さかったり、はあ。

本朝朝顔、すごいよ。今、地を這ってます。
あ、それとホオズキが樹木のようになってきてますよ。
Commented by murasakitsukumo at 2009-07-31 01:05
以前何かの番組で見た、がんで余命宣告を受けた女性が子供たちに「人は結局何のために生きるか、人のために生きるんだよ。」と、そのことを伝えたくて小学校を回っているのを思い出しました。
特定の人でもいいし、もっと大勢の人でもいいし、あるいは「人」を別の概念に置き換えてもいいかもしれない。理念とか、平和とか。でも決して「自分のため」ではない。
“願うこと”とちょっとずれるかもしれないけれど、なぜかこのことを思い出したんです。

あと、つい先日亡くなった川村カオリさん。
私と同い年なんですが、まだ小さい子供を残して、さぞ無念だったろうと思います。
彼女は小さな娘さんに「自分が生きて在ることを強く願ってほしい」と思うよりも、娘さんがこれからも生きて在ることを最後まで強く願ったと思います。
ただそのためにも、自分が生き続けることも切望したでしょうが。
自分が生きることと、自分を必要とする人が生きるのを願うことは、パンタタさんのご指摘のように双方向、表裏一体なんですよね。
人を想い、在ることを願うことが傲慢ならもっと傲慢になりたいなーと子供たちの寝顔を前に考えている深夜でありまする。
Commented by パンタタ at 2009-07-31 20:55 x
紫月雲さんへ
ありがとうございます。
受け入れる度量もいるんだな、と思うこの二日間です。

息子さんに「三匹のやぎのがらがらどん」も読んであげてね。
うちとこは「じごくのそうべえ」が一番人気でしたが、
どんなけ読み聞かせしたか、
まだ覚えてるよ「とざい とざ~い」てね。
Commented by テキ at 2009-08-02 12:26 x
荒らし、うぜえな。さみしいんなら仲間に入れてもらえよ。
Commented by パンタタ at 2009-08-02 13:13 x
テキさん
きっと人見知りする、さみしがり屋さんなんでしょう。
Commented by ボブ at 2009-08-02 15:55 x
う~ん、「傲慢」なのでしょうか?
わたしにはささやかな望みなのですが・・・
知っている限りの人が、せめてなんとか生きていけることを願うのは傲慢なのかなあ・・・・・

チャチャいれる人、まだいたんですね。
Commented by パンタタ at 2009-08-02 20:10 x
ボブさんへ
ネットはアドレス非通知で匿名やから、
憂さ晴らしする人がいるんですね。

by alglider | 2009-07-29 21:47 | 日々是口実 | Comments(16)

さびしさを糸でかがればかぎ裂きのかたちしてをり棘のあるらし


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