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無用の香木

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 「わぁ、やったー、スッゴーイ」
 食堂に歓声が響き渡った。イチローが大リーグ年間安打記録を更新した瞬間だ。

 「ワシはコイツがアメリカに渡米した時からエライことやってくれると思っとった」
 「ホンマよかったねぇ、Aさん」

 似た会話が多くの入院患者の口から聞こえてくる。食堂は幾つもの円柱に支えられ、楕円状に全面ガラス張りになっている。緩やかで確実に冬に向かっていくデクレッシェンドの日射しが満ちる中、それぞれに自らが記録を達成したような自負に興奮していた。

 その日、十月二日は、私が予定より一日早く観察室から解放病棟に移された日だった。ワンクール三か月の長い入院生活。これから生活する病棟内を見て回っていた。大学の見えるベランダ、ベンチが据え付けられた窓、病院にしては広い浴室、日向ぼっこのできる前庭、そして先ほどの食堂での光景。なるほど解放とはよく言ったものだ。
 
 食堂から病室へ向かう廊下で看護婦とすれ違った時、ふわりと起きた風の中、妙なことに気付いた。ここには、あの病院特有の消毒薬の匂いがなかった。食堂にも廊下にも、そして、たどり着いた病室にも。

 その理由は風聞で知れた。あの香りはアルコール依存症者の飲酒欲求を刺激するというのだ。そういえばトニックやコロンも制限されていた。私はイチローの栄光から遠く離れた所にいることを思い、引き算の病棟にいることを知った。

 反復の毎日の中で、木曜日はシーツ交換の日だったが、私はここ何回か枕カバーを換えずにいた。点滴にも採血にも微かな香りが伴ったが、いつの間にか枕に染み付いた我が身の匂いだけが、私の闘病の根拠になっていた。枕に顔を埋めると、ざわざわと心に忍び込んでくる夜が息を潜めた。

 その香りだけが足し算や引き算のない世界に私を誘い、私を私に向き合わせる安静をくれた。過去の悔恨も未来への償いも枕元にあった。私はたれにも顧みられることのない一本の無用の香木となってベッドに横たわる。


写真
ハナミズキ ノ ハナ ガ サイタ。センシュウ ハ サイテ イナカッタ ノニ イッシュウカン デ ハナヤカニ サイタ
by alglider | 2006-04-29 11:09 | 中中小説・詩

さびしさを糸でかがればかぎ裂きのかたちしてをり棘のあるらし


by alglider
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