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人生辛抱だ、てかっ

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14:53

 今日はお仕事休みだから、ずっと起きている。

 病院に行っていないから、病名はしかと分からないのだけれども、頚椎のヘルニアだと思っている。小さい頃から偏頭痛持ち持ちだから、最初はごっちゃになって分からなかったんだけれども、どうも頭痛ではなくて頚椎の方であるみたい。首の右の筋の頭の付け根部分の痛みが酷くなって、首が動かせない時がある。振り向く時は身体ごと回転するのである。仕事で郵便物の数を読んでいる時、かすかに指先が痺れていたことが一度あった。これって、一回整形外科に行くべきだと思っているのだけれども、自然消滅してしまうから、行くことを失念してしまう。痛みがある時は行こうと決心するのだが、そのときは行ける状況にないことがほとんどである。


 で、私は中学生の時に。朝礼か昼の説明会か、まぁ兎に角、運動場に整列させられている時に、気を失ったことがある。目の前が紫に色になっていって、へなへなと倒れてしまった。貧血ではなくて、今で言う熱射病のようなものだったと思う。おかしいな、しんどいな、つらいな、と思っていたのだが、言い出せなくて倒れてしまったのである。倒れる前に何とか自分を処することができなかったものか、と最近思うのである。


 他人は、どれ程のことを我慢しているのだろう? と、最近思っている。和を乱すのが恐くてその場であまり「しんどい」とか、言い出せないタイプである。自分のことをあまり表に出すのは良くない、謙虚であれと育てられた方でもある。が、逆にだらだらと、自分の思いを貫く姑息なタイプでもある。これはだらだら飲酒に表れて、だらだらお酒断ちに繋がっている。


 我慢に数値 = 絶対値というものはない。よく、「角で小指を打ち付けた時の痛み」なんてことを言うけれど、人それぞれに痛み程度 = 我慢の程度は違うであろう。特殊な痛みが伴うから、比喩として成り立っているだけで、それぞれ人はどれぐらい我慢しているものだろう?


 私は、自分のことをとんでもなく我慢強いのではないかと思う時がある。この頚椎の痛みも、大したことはないのかもしれないが、他人が感じることができたら、何がなんでも病院に直行している痛みなのかも知れない。「こんなに痛いのなら病院行くでぇ、常識やでぇ」「もっと身体大事にせな」と言われるかも知れない。ということは、我慢ということも社会的なものであるようだ。肝臓を一人で我が身だけで傷めていく分には、アルコール依存症ではないと言えるのと同じように、我慢も一人で耐えている分には痛みは痛みとして顕在化しないのかもしれない。我慢も痛みも社会的なものか.......時に我慢は他人に迷惑を掛ける時がある。経験してきたことである。


 我慢が社会的なものだとすれば、社会に疎い私は随分と我慢しているのかも知れない。していないのかも知れない。分からない。が、もっと、自分は「しんどい」のだと言う態度を身に付けなければならないのかも知れない。訴える力に欠けているような気がするのである。依存症になった、ならなかったは別として、お酒に逃げ込むにはうってつけの性格なのである。身に付いていない。以前の担当医に

 「正常って何ですか?」と尋ねた時

 「簡単なことだよ。地震や火事があったら逃げることだよ」

 と言われたことを、また思い出す。火事があったら本能としては逃げるだろうけれど、観念の中では逃げるという行為をするだろうかと訝っている自分がまだある。社会的な態度としては身に付いていないかもしれない。


 ずぼらな私は、痛みや我慢が数値化できて「はい、あなたのペイン度は80ですから、がまんしなくていいんですよ」とか「あの人も80ですから、同じ痛みですよ。ほら、泣き叫んでいたはるでしょ」と言ってもらったほうが楽なような気もする。

 あぁ、また社会から逃げようとしている、私である。


 そうそう、記念大会で流す音楽を選んでいたのだけれども、物故者追悼の時の音楽を忘れていた、どうしょう.......ゲイリー・バートンの『葬送』を流すわけにもいくまい......



只今のながらCD

Live At The Jazz Cafe/ProjeKct One
by alglider | 2007-03-30 09:24 | 日々是口実

さびしさを糸でかがればかぎ裂きのかたちしてをり棘のあるらし


by alglider
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