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椿です

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桜は咲(さ)く   桜は散(ち)る
梅は綻(ほころ)ぶ   梅は零(こぼ)れる

 って、弥生廿九日の[梅]のところで書いたけれど、もう一つ花の表現で決まりごとがあったように記憶していた。んだけれども、思い出せずにいた。
 梅の咲くことを[ほころぶ]と微笑み、散ることを[こぼれる]と言って成就の儚さをを讃える。なんと豊かな受け手と花とのやりとりだろう。んで、今日、朝早く、といっても九時ごろなのだけれど些細な赴きがあって近くの郵便局に行った。私のマンションはちょっとした木々と竹林に埋もれた環境にあって、裏道は潅木と喬木の間を抜け小汚い公園に続く。閑話休題(ここらあたりで使うのかしら)そこで、椿を見つけた。そうそう、椿じゃないかなって、忘れていた花は.......。
 たぶん多分、椿って散ることを[落ちる]と言うはずだ。それはそれで良し。困ったのは咲くことをどう表現するかだ。う〜ん、腕を組みながら、しばらく歩いて、はた、と気づいた。考えても分かるはずがない、と。んで、自分で作ることにしてしまった(Y)o¥o(Y)ハァッヒィッフゥッヘェッホォッホォッ....。私と椿のゆかしき心の交流、はい、それは[ともる]に決定しました。

椿は灯る 椿は落ちる

どうですか?本当の解答を知っている人がいたら連絡ください。それまで、私の文章では、椿が咲く表現は[灯る]になってしまいますからららら.....キッパリ(^^)v

新シリーズ/今日のながらCD
Solitude Standing /Suzanne Vega

今日の一文
ぬくうてあるけば椿ぽたぽた            種田山頭火
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by alglider | 2006-03-31 22:09 | 私的季語 | Comments(10)

猫正宗(*^v^*)じゅるるる…

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[アタゴオル物語]の前身[ヨネザアド物語]のときのヒデヨシ…
昼間っから、すでにアル中か…

今日の一文
 拙宅にも猫がニ匹いて....、と書いて、既に心理的抵抗感を感じるのは、この二匹という言い方で、匹というのは、疋とも書き、鳥や獣を数えるのに使う言葉であり、だから、拙宅にいるのは猫なのだから、なんの問題もないのだけれども、どうも割り切れぬというか、思い切って申し上げると、私としては、これを、匹、とは言いたくないのであって、じゃあなんなんだ、と言われても困るのだけれども、うーん。困った。じゃあ、本当の本当の本当の事を言うと、恥を申し上げるようだけども、言いますと、
「私はこれを二人と言いたい」
 うぐぐぐ。とうとう言ってしまった。これまで私は、ありとあらゆる策略を巡らせ、二匹とも二人とも言わぬようにしてきたのであるが、もうなにもかもお終いである。私は本稿を書き終えたら、どこか人気のない海に行ってドアーズのジ・エンドを歌いながら身投げをすることにいま決めたが、そう、有名なこの歌の歌詞に、マイオンリーフレンド、という言葉が出てくるように、拙宅に起居する猫はマイオンリーフレンドである。そういう大事な存在を、「僕には友達が何匹もいてねぇ」などという人がいないように、匹呼ばわりするのは私には出来ぬのである。さりとて、これを、人前で堂々と、二人ということも出来ぬ。なぜか。それは人間特有の虚栄心の問題である。
                    町田康『CATOPIA』
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by alglider | 2006-03-30 15:45 | 私的季語 | Comments(5)

明日はサックといきます......

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今日の一文
フッフッフッ 雪待ち草の酒かうまそうだなぁ.........ますむらひろし作品集
                     「アタゴオルは猫の森」の中の一編
                     「雪待ち草の酒」ヒデヨシの台詞 
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by alglider | 2006-03-30 01:57 | 日々是口実 | Comments(2)

アル中小説「二つ曲がりの辻」 頑張って読んでね   (^o^)/

 弥生三月のかかり。曇天。午後、遅い昼食と散歩をかねてマンションを出た。しかし、数歩もいかないうちに、ぽつりと雨が落ちてきた。傘を取りに帰るのにそれほど手間がかかるわけでもなかったが、何だか億劫でそのまま歩いて行った。頭上には、春の陽光を待つ桜の枝が、投網を打ったかのように重っ苦しい雲の海の下に広がっている。また、ぽつりと木の芽おこしの雨がオレの額にあたった。

 昼めしといっても、食欲があるわけではなかった。最近ではよくて一日一食、ぶらり当てなく散歩する途中に見つけるそば屋に立ち寄り、文字どおり喉に流し込む程度だ。それも見つかればの話だ。駅前の商店街に出ると、酒屋でビールを買い、一気に飲んで、
 「今日は何に突き当たるだろう」
 と考えた。

 仕事を辞めて散歩は日常となった。永遠に徘徊を続けそうな不安をアルコールと一緒に飲み干しながら歩いていると、何かに突き当たり、突き当たったところで気づき、家に帰り着いている。そんな毎日が訪れた。その突き当たったものが、幾重もの壁となってオレを閉じ込めるときもあれば、今まで塗り固めて築いた壁を一瞬にして、打ち壊してしまうこともあった。

 ひと駅分の切符とビール二缶買い、郊外へ向かう各停電車に乗った。

 「雨の降っていないところまで行こう」

 車内はガラガラだった。携帯電話にひたすら謝っている三つボタンスーツの若いサラリーマン。高級を売り物にしているスーパーの買い物袋を下げた主婦。そして、オレの向かいには大きな籐の籠を床に置いて化粧を直している若い女。ひと車両に四人だけだった。
 ビールを飲みながら、ぽつぽつと斜めに突き刺さる水滴越しに、窓の外を眺めていると、オレの足に絡みつくものがある。それは一匹のマルチーズだった。どうも、向かいの女の籠に潜んでいたらしい。

 「ちーちゃん、だめ、こっちこっち。おじさん困った顔をしてるでしょ」
 六つの人間の眼と二つの獣の眼が、オレを見つめている。向いの女が再び「ちー・・・」と言った瞬間、オレはそのマルチーズを蹴飛ばした。
 「きゃん」
 と転がった獣を無視して、また外の風景に眼を遣った。

 サラリーマンはメールを打ち始め、主婦は吊り広告を読むふりをし、向いの女は獣に駆け寄った。ひとつの風景が車両の中にじわりと充満していく。次の駅でドアが開くまで、この空気は運ばれていく。網膜には土塊だらけの田畑、立ち並ぶ高圧電線の鉄塔、畦道を赤い傘をさしながら自転車を駆る女子高生、だれも待つことのないような小さな踏み切り。不思議と絶対性が混じる雨の風景が脳裏に映しだされる。そこには愛玩という自己膠着が這い入る隙はなかった。

 「この酔っ払い」
 と女は罵り、隣の車両へ移っていった。
 決して、オレが正しいなんて恥ずかしいことは言わないけれど、暴力はお互いさまだろ。見ているものが違っているときにはときどきこういうことが起こる。電車に乗ったときぐらい遠くを見ろよ、ねぇちゃん。

 県境のトンネルを過ぎると、嘘のように空は晴れていた。こんなこともあるのだ。山端の上に、サンドブラストを施したような大きく白い月が残っていた。次の駅で降りよう。
 その地は新興住宅地として再開発され始め、駅も新しくなったばかりのようだった。駅前のロータリーに「都心まで乗り換えなし、快速で40分。アメニティーライフを演出するガーデンタウン」との大きな看板がでていて、チベットの仏教寺院にあるような色鮮やかな旗が風にはためいている。駅前は整備されているが、看板や旗の、つい向こうには未だ古い町並みが続いている。なだらかな勾配のある道に沿って、商店が申し訳なさそうに肩を並べ委縮している。オレの足は自然とそちらに歩み始めていた。

 蚊取り線香の古い看板の残るよろず屋で、そば屋は近くにありませんかと尋ねると、にきび面したそこの息子らしい兄ちゃんが、斜め向いにある一膳飯屋を指さし、食事のできるところは
 「壽屋さんしかないよ」
 と言った。

 その壽屋は、やっているのかやっていないのか、人の気配がまったくしない。建て付けの悪い引き戸をがたんと開けると、黴の湿った空気と、冷えたセメントの土間にデコラのテーブルが四つ、奥の三畳ほどの部屋に婆さんがちょこんと座っていた。そばはともかく、酒にはありつけそうだった。
 塩豆を肴に燗酒を三合ほどやってから、婆さんに
 「ガーデンタウンってここから遠いの?」
 と聞くと、バスで20分はかかる山の中腹だという。じゃ、あの看板は詐欺みたいなものじゃないかと言うと、婆さんには聴こえていないふうで、
 「ここに兵隊さんがおったころは・・・」
 と一人でしゃべり始めた。

 ここに兵隊さんがおったころ。それはもちろんガーデンタウンのなかったころだ。当時「二つ曲がりの辻」という路地があったらしい。小さな地道がクランク状に折れて続いているらしいのだが、一つ目の曲り角に来ると、どの兵隊さんもその角を昔、見た気になるという。新しく赴任してきたばかりの兵隊さんもいつかどこかで、その辻を曲ったことがあるような既視感に囚われるという。その角を往くと昔の自分に出会う気がして立ち止まるという。思い切って曲ると、そこには三輪車が一台放置されている。どの兵隊さんも、その三輪車になぜか乗ってしまうのだった。そして、二つ目の曲り角で、また足踏みをする。その先を曲れば、今度は自分の未来に出会いそうな恐怖に襲われるのだった。そこで、二つ目の角を曲る者と引き返す者現れる。その分かれ目が、戦争での生死の分かれ目だったのだという。

 婆さんの話では、二つ目の角を曲った者が死んだのか、引き返した者が死んだのか、よく分からなかった。しかし、その「二つ曲りの辻」は、今のガーデンタウンのどこかに残っているかもしれないという。オレは慌てて勘定を済ませ、よろず屋に取って返し、缶ビールをバッグに詰め込めるだけ詰め、その分かれ目に向かうことにした。

 パステルカラーのおもちゃみたいな、あの小生意気なマルチーズの愛想みたいな家が延々と建ち並ぶ空間が「アメニティーライフを演出するガーデンタウン」だった。「快適な生活」を指向する人々にとっては、随分と怪しい人物と思われただろうが、既に酩酊に近いオレは太宰の描く主人公のように「大波に飲まれる内気な水夫」にはなれなかった。「二つ曲り、二つ曲り」と空念仏を唱えては、家々を心の中で蹴飛ばし、クランクの辻を探した。こんな出来合いの町に既視感も未来もへったくれもない。が、果たして、整然と区画割りされた新興住宅地の外れにそれはあった。

 崩れかけた石塀の残るその角には電信柱が一本立っていて、電線は薄雲に溶け込み、その向こうにあるはずの電柱は見えない。ふらつく足で一つ目の角を曲ると、三輪車は当然という顔をしてあった。躊躇はなかった。片足を三輪車のステップに掛け、もう一方の足で地面を蹴った。アクセルを回す。エンジンを全開にして、二つ目の角までの永遠を一瞬でたどり着く。光速の中で時間が赤く青く明滅し往きつ戻りつする。婆さんの語った生と死の境界線が入り交じり、風景がダリの時計のように歪む。光の霧の中を、兵隊さんが隊列を組んで行進する。あの婆さんの顔が娘に幼子に変容し、分裂し弾け、はるか彼方後方で霧散消滅してしまう。万年雪を一秒で、手のひらに震える一片の雪を一万年かけて溶かしていくような捕らえどころのない不確定な感情の流れ。ハンドルを握るオレの手は小さくなり、皮膚一枚で世界と対峙する幼児そのものだった。皺だらけの年老いた男とすれ違う。咳き込む老人の背中には見覚えがあった。刹那が永久に彼岸が此岸に、すべてが交換可能のように思われた。一つ目の角を曲り、どれほどの時が流れたのか知る由もなかったが、遠近法によって絞り込まれた一点から、これまで出会ってきた者たちの視線が放射されている。そこでは、視線が風景だった。見ることは見られることだ。その視線の風景の中にオレがいる。そして、オレも一つの視線となって、視線は風景となって、風景は光りの氾濫となって「二つ曲がりの辻」を折れる。

 ホーと鳥が鳴いた。目を細めて「二つ曲りの辻」の入り口に立ちすくんでいる自分がそこにいた。茫洋と酔っていた。一つ目の、二つ目の角を曲っても何もなかった。三輪車などあるべくもない。クランク状の路地を抜けると、ただ、整地を待つ野っ原が広がり、その果ては削り取られた山肌の断崖になっていた。その際まで行き、少し吐いた。涙がでて、風景が滲んだ。苦い液体が口中に溢れる。二重写しですべては静止し、自らは輝かぬ、擦り硝子のような白い月が浮かんでいるだけだった。

 帰りの電車の中で、オレは白濁した頭で、この電車に乗っている自分自身をずっと見つめていた思い出していた。それは辞めた小さな印刷工場に勤めていたときのことだ。二階のトイレから刺激臭のするだらだらとした小便をしながら窓の外を眺めると、送電線に肩を預けながらいつもこの電車が走っていくのだった。
 「どうして、オレはあの電車に乗っている自分ではないのだろう」と。
 最寄り駅近くの小さな踏み切りで、男の子が三輪車に乗って、この電車が過ぎるのを待っているのを見い出した。それは、その男の子がだれであってもかまわないのと同様に、その踏み切りで待つのはこの酔っ払いでもよかったはずだ。風景のあちらこちらに交換可能なオレが佇んでいた。

 もう一度「二つ曲がりの辻」に行ってみようと思った。
 その時、ホーと鳥がまた鳴いた気がした。
 薄情にも、新しい夜を待つ月は、もう消えていた。
         —了—



今日の一文
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ       
                      花であること    石原吉郎

*「花」を「依存症」に置き換える。
 そのとき依存症であることは
 もはや ひとつの宣言である      天国の石原吉郎さん怒らないでね
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by alglider | 2006-03-30 01:46 | 中中小説・詩 | Comments(2)

梅です

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桜は咲く、桜は散る
梅は綻ぶ、梅は零れる
日本語の表現はこんなにも情感が豊かです…

今日の一文
さくらばなちるちるみちるみずながれさらば風追う言葉とならん   福島泰樹
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by alglider | 2006-03-29 16:44 | 私的季語 | Comments(5)

瓢箪から駒 ヅラから道徳

 今日『ナルニア国物語』を見に行って来たから、連想が働いてPINK FLOYDの『ANIMALS』を聞きながらこれを書いている。『ナルニア・・』のことだけれども、ストーリーは子供のためのファンタジーだからいたって古典的。しかし、私はCGというものに疎いから十分に楽しめた。ビーバーが話したときは驚きゃあした。この映画、脇役のビーバーで持ってる、なぁて。んでもCGって遠近法がおかしいんやね、知らんかったわ。あれは作意としてのディズニー的誇張芸術表現なのだろうか?CGの特性?限界?分かりません。映画が遅くなって、というのは言い訳で選抜高校野球を見入ってしまって、お出かけが送れた∴遅くなった、しかるに扇町AAはパスすることに相成り、阪神DPT地下食堂で名物いか焼き3枚、旨っ旨って、食して家路に。 

 んで、帰りの車中なんだけど、私の目の前の席の男性がヅラを着用(?)していた。でもって、これがまた映画に向かう往きの電車の中でも私はヅラ男性と遭遇しているのだった。こんな偶然、こんな一日二回もってあるんやねぇ。もちろん同ヅラ別人ですよ、同じ男性なんてことは奇跡に近いですから。ヅラを確認したとき「オレは100%見抜く自信がある」と自惚れを覚えますが、本当はカツラを着用している男性をどのくらいの確率で気付いているのでしょう?どうでもいいけど。んで、車中の私の視線はどうしてもヅラにいってしまう。これがまた良く擬態しているものだから、ついこっちも正確なところが知りたくなる。いけないと思いながらも、チロリンとつい視線がいく。相手も「気付かれたかな」って素振りで俯いたりする。私はさり気なく吊り広告に視線を移動して、また戻す。目と目が合う。携帯のバイブが震えた振りをする、私・・・・。

 相手の男性はイヤな思いをしただろうか?それとも慣れているだろうか?極私的に言えば、カツラを用いる人の気持ちはまったく分からない。私やったら必ず注がれるであろう視線に堪えられない。チャパツにする感覚と同じなのだろうか・・オシャレやんオサルやん。オシャレにしたって、天然パーマの女性がストパーをあてる感覚とヅラ着感覚は随分違うような気がする。実存という深淵な問題か。禿げたら禿げでいいじゃん、自然の摂理じゃん、これが私の気持ちだ。でも「京大類人猿研究所(?)みたいに、じろじろ観察するのは失礼やないか」「勝手じゃないか、自由じゃないか」というのはカツラを用いている人の気持ちだ、正論だ。そうだ勝手のかの字なのだ。話が微妙な問題を含んでいる(?)だけになかなか進まない。整理ができずにあっちこっちにいってすんまそん。
 
 そんなこと(視線に堪えられないよなぁ)を思いながら、私の思いは自分の過去に向かっていた。勝手のかの字、自由じゃ、失礼じゃないかないか道頓堀よ..。そう、かつての私は勝手のかの字で、車中飲酒を繰り返していたのだった。ヅラがナンボのもんじゃ、視線がナンボのもんじゃと関係なしで、ウビウビと大好きなビールを喉に流し込んでいた。通勤満員電車の中でも吊り革に掴まり、片足立ちだったりしても。空いた車中では大阪のオバサンたちの掛け合い漫才を耳にそよぐ風のように聞きながら。視線なんて関係ない、臭いまで発しているのだからん。私には「みっともない」という哲学がスコリンと抜け落ちていたのだ。これは飲酒によって抜け落ちたのではない。もともとなかったのだ。早川義夫さんがソロアルバムのタイトルで「かっこいいって、なんてかっこ悪いんだろう」と看破したように、自由の名のもとスコリンと「みっともない」が抜け落ちた不甲斐ない私が酒をたらふく飲んで豈図らんや何の不思議があろうか。コンビニの前で囲み座りしてカップ麺を食べ散らかしている少年少女たちの先駆け的存在だったのである。が、ゴミは捨てる習慣は身についていた。いくら酔っても空き缶は空き缶入れに、だ。「みっともない」というのは教養の感覚だ。「かっこわるい」というのは道徳の感覚だ。断酒生活には教養と道徳が必要なのである、とみっともなくも言い切る私はどうすりゃいいのよ思案橋。ここでいう道徳というのは私流に言い換えればフェアということなんだけれども。この道をアントニオ猪木風に迷わず往けばやがて倫理という家に辿り着くはず。あくまでも、はず。

 このようにヅラから飲酒生活を回顧し、断酒の心得を考え、哲学を超えた倫理の境地まで思案橋していると「次はHNYGW駅〜、HNYGW駅〜」車中アナウンスがあったので、かのヅラの男性と一緒に降車した。階段の後ろから後頭部の具合をしっかりと確かめている自分があった。とほっ...。
酒、自由、道徳、倫理は私の主旋律なので日を追って奏で続ける。今回は長〜い長〜い、イントロでござるるる...。

今日の一文
この学びの旅を終えたら家路につこう        ヘルダーリン
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by alglider | 2006-03-28 22:59 | アルコールと自由 | Comments(1)

私は現象にしかすぎない1

 明日(もう今日か・・)はアスパラクラブで当たった映画『ナルニア国物語』を見に行って、帰りに扇町のAAに寄ろうかしらん、と思っとります。んで、余裕をかましてたらプーシキン美術館展も4月2日の最終日が近付いて来てるがな・・光陰矢の如し・・お咲き(上方落語では嫁さんのことをこう呼ぶことが多い)さんに「もう、うかうかしてたら見逃すがな、いつ休み取れます?」と聞いたら「えっ、一緒に行くの?」と言われてしまいました・・婚姻闇の如し・・。

 プーシキンで見たいのはモネの『睡蓮』とマチスの『金魚』だ。前回の続きになってしまうけども、マチスはさておき印象派のモネを「おぅ、結構美しいやん」と感じられたのは退院してからだ。技術は技術、印象派の理論は単純で納得し難いものがあって、これまた私の心が硬直していた証や、秋刀魚かはこれからの検証、生き方になると思うねんけど・・・。アルコールを止めてたら、私の何が変わっていくのだろう、というのは楽しみなところだが、私は「止まっているという現象にしかすぎない」とアンビバレンツな今日この頃だ。ところでポロックの映画見ました?半端じゃありませんよね、あのアルコール(**)。あんな飲まんでもと、チューもため息ものだ・・。

 今夜は疲れているんで、このぐらいで寝むりまするるる・・。

今日の一文
 もう三日も飲んでないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの?あきまへんの?ほんまに?一杯だけ。ええわい。飲ましていらんわい。飲ますな。飲ますなよ。そのかわり、ええか、おれは一生、Wヤングのギャグを言い続てやる。君がとってもウイスキー。ジーンときちゃうわ。スコッチでいいから頂戴よ。どや。滑って転んでオオイタ県。おまえはアホモリ県。そんなことイワテ県。ええ加減にシガ県。どや。松にツルゲーネフ。あれが金閣寺ドストエフスキー。ほんまやほんまやほんマヤコフスキー。どや。そろそろ堪忍して欲しいやろ。            町田康『くっすん大黒』

 
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by alglider | 2006-03-28 01:40 | 回復過程 | Comments(4)

ブログ深夜便

 今日の未明にブログを書き込もうと思っていたのだけれども、前日徹夜だったので、NHK「ラジオ深夜便」のシャンソン名曲選を聞きながら寝てしまった。DJは加賀美幸子さんで、加賀美さんの声はいつも私の気持ちを落ち着かせてくれる。余談になるかどうかは分からないけれど、アルコール依存症のドキュメント映画『もうひとつの人生』のシナリオの最後で加賀美さんは、なだいなださんと対談している。

 んで、話はその「ラジオ深夜便」から始まるのだけれども、私が「ラジオ深夜便」を聞き出したのは、アルコール専門病院に入院していたときだ。眠剤を飲む習慣がないから、ぞわぞわ不安が湧いて寝つけない夜はラジオを聞くようにした。んでも、なかなか心落ち着かせてくれる番組がない。どの局に合わせても、DJは英語混じりの日本語(またはその逆で)で独善的に話しっ放しだし、流れる音楽も馴染めなかった。こちら疲れるんよ、こちら寝たいんよ、と思ったものだ。そこで辿り着いたのが「ラジオ深夜便」だったわけ。丁寧な日本語とその言葉と言葉の間の取り方が、耳から脳にやんわり伝わってくる。刺激ではなく浸透する。こらえぇわ、ごっつえぇわ、と毎晩聞くようになった。話し掛けるようなDJスタイルは、あぁ、この夜のしじまを言葉の電波が飛んでいる、と想像させてくれて子供のように嬉しくなった。今でも嬉しい。変ですかねぇ。

 んで、話は変わるようですが、私は祖父と兄の影響もあって、小学生のときから音楽は「アホちゃう」と他人様から誹られるぐらいROCK一辺倒で、クラシックなんか聞いたことがまったくなっかたし聞く耳を持っていなかった。しかし「ラジオ深夜便」では、アナウンサーの声に導かれるように聞いてしまっている私がいた。これは不思議やったなぁ。そして、アルコールが抜けて、飯がんがん食って体重が増えていくのに合わせて、いつしか私はROCK以外のものも聞く感性も獲得しておったのだ。おぉ、マンマミーア。そして、それからNHKのFMから流れるものは何でも聞いた。演歌、民謡、歌謡曲、小歌、端歌、新内などなど・・。今でも早朝にやっている邦楽の時間は好きだ。SEX DRUG ROCK'N'ROLLの三点セットのDRUG=アルコールが抜けてきたらROCK'N'ROLLの呪縛からも解放されて、体も感性も楽ちんになった。もちろん今も感情の揺れはあってしんどいけれど。耳に届いてくる旋律ものは快適でござる。

 で、酒も音楽も、とにかく嗜好というものは、過ぎれば心の硬直を招く。依存症やから酒から解放されたとは言えないが(今んところ考えんと済んでるんで楽ちん楽ちん)、多種多様な音楽が耳に響いてくるのは心地よい。快適だ。

 そんでもって、気になっていることがある。話はここからなのだ。長いなぁ。いかん、日付けが変わってもうた。文章の出足がおかしなるけど許してください。断酒会やAAに参加して、よく耳にする言葉で「お酒を止めて、花や空、自然の本当の美しさに気付きました。お酒飲んでいる時は全くその美しさに気付きもしなかったのです..何たら勘たら..おぉ世界よ!...」というものがある。断酒会の方で聞くことが多いかな。私は困ったなぁ、と思う。入院中リビング・ソーバのミーティングに参加して「月の美しさにも気付かず飲んでいた..何とか勘とか..」という文章のときに発言を求められて「美しい月を見ると飲みたくなって飲んでいた」と答えたのを時々思い出すが、関係あるのかもしれん..。その「本当の美しさ」なんて私さっぱり分からんちんなのである。花を美しいと思うことはある。花の色のうつろいを愛でることもある。でも「本当の美しさ」みたいに心底で言われると、私にとって脅迫観念になりこそすれ、共感はありまへんがなと言いたいのである。「酒を止めた日にゃ、花の本当の美しさに気付かなあきまへんのか」と思うと「私はまだまだ修行が足りん」と辛くなる。これって、心の硬直が取れて、色んな音楽が聞けるようになったのと、似てるようで全然違いますがな、という思いなのである。お酒を止めたぐらいで(それがアル中にとってどんなけ苦し気なことかは身を持って知っているけれど)急に、真・善・美について語るようになれるとは思わんちんなのである。語るのは大いに結構毛だらけ猫灰だらけ、やねんけど、私にはそこまで言う美しさが分からんし、言う迫力もありませぬ。せやから脅迫されているような気になってしまう「ええ、みんなそんなに世界が美しく見えてんのぉ」と(えぇ、これも病気のなごりと思いますけど)。私ゃもっと楽な方へいきたい、というのが本音であって、真・善・美は遠い話だ。言いとうなる気持ちはよう分かる、けど、そこまで言わんでも、と思ってしまう。遠回しを止めると、それを言ったらお終いやがな、なのだ。また、心が硬直するやん...と。あぁ、それを書いたらお終いやがな...くわばらくわばら桑原和男..カミサマ...。

 もうすぐ、ラジオ深夜便の私の好きなコーナーが始まるので、続きはまたの機会でござるるる....。

今日の一文
井の中の蛙大海を知らず、しかしその空の蒼みを知る   作者不詳
 
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by alglider | 2006-03-27 01:22 | 回復過程 | Comments(4)

前口上 日々是口実

 ある女性の友人が「ブログを開設したので立ち寄って..」と言ってきたのでほいほいと「おう、これが噂のブログか...」と覗いてみると結構面白かった。癖になってあちらこちらのブログを迂路つき回って、こら、老若男女もすなるブログたらいうものを私も一丁やってみようと思いたったら吉日で、今日が吉日かどうかは知らないが始めてしまった。
 迂路つき回って、何とアルコール依存症関連のブログの多いことよ。おぉ悩み多きアルコール依存症者達。あちらこちらと熱心に委縮した脳で覗いて回って、疲れちゃんちゃこりん...
んで、何故そんなに熱き心で徘徊したかというと、私もれっきとした悩み多き中だからだ。
 AAのメンバーが開設していることが多い、AAの人の集い方から納得できるなぁ、断酒会だとその会のHPになることが多いなぁ、なんて感心も得心もしていたのだが、私は断酒会員なのであった。まぁ、Take it easy なんてROCK魂をなくしていたと告白しているEAGLESのように気楽に、巧妙で、不可解で、強力なアルコールの物語りを紡いでいこう。
 織田信長が舞い踊った「人生五十年」も過ぎて、巧妙で、不可解で、強力な自由の物語も...
 入院して退院してグライダーのように断酒生活を続けている。アル中のグライダーだからブログの名前をalGLIDERにした。フニャラフニャラとTake offするっす。

今日の一文
風孕み落ちゆくまでの一瞬をわれらはわれを愛すほかなく    福島泰樹
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by alglider | 2006-03-25 06:23 | 日々是口実 | Comments(4)

さびしさを糸でかがればかぎ裂きのかたちしてをり棘のあるらし


by alglider