じゃんけん + 短歌
2009年 07月 05日
15:57
錆 び て ゆ く 空 へ 群 れ な す た ち あ ふ ひ 無 力 で あ れ と 言 ひ し 人 あ り
さびてゆくそらへむれなすたちあおいむりょくであれといいしひとあり
昨日の
朝日新聞「天声人語」には蛍のことが書かれていた。人間の安易な自然回復への関与が生態系を壊す可能性があるという論調だが、そこに池田澄子さんの俳句が引かれていた。
じ ゃ ん け ん で 負 け て 蛍 に 生 ま れ た の
短歌じゃなくて俳句だけども、現代口語で書かれた伝統短詩に久しぶりに「ぐさっ」ときた。口語俳句では寺田良治さんの
い ち ま い に の び る 涼 し さ 段 ボ ー ル
が諧謔味があってお気に入りだが、「ぐさっ」ではない。
さて、じゃんけんというのは公明正大で、それで何ごとかを決定しようとするなら、あとで文句のでない正当性を持っている。持っているだけに、承服しかねる結果については個々人の中に澱がたまる。結果には従うが、人によって潔さが伴わなければ、それはわだかまりとなる。この蛍になった作中主体はいったい誰とじゃんけんをしたのだろう? そんな思いが頭をめぐる。一切の決定権を持っている閻魔大王がじゃんけんという取引でもって蛍として命を再び与えるというのも変だが、一見公明であるじゃんけん自体にひそむ儚さ危うさが蛍とよく合っている。といっても、蝉にしろ、蛍にしろ幼虫である時期を勘定に入れないのは人間の身勝手であって「あはれに感じたい病」みたいなものだけど、それは否定するものでもない。
しかし、どんな状況で誰とじゃんけんしたのか?蛍とは何者か?の問いが頭から離れない、気になる。これからときどき思い出しては、ああ、こういう状況でか!とその場その場での解答が出てきそうな深い意味合いのある句だ。
もう一つ、じゃんけんで思い出したのは娘さんが保育園に通っていたころの話で、ある時期、保育園に行くのを嫌がるようになった。理由を聞くと、このごろ「毎日鬼ごっこがあって、捕まるのが嫌なの」だという。大勢でじゃんけんをすれば鬼になる、つまりじゃんけんで負ける確率は低い。捕まるより鬼の方がいいというのである。しかし、鬼になれる確率は低い。うー、これは切ない問題である。私が提案した解決法は簡単で「私が鬼になると言えばいい」というもので、ほかの園児たちは鬼にはなりたくないので、一件落着である。
ただ、鬼ごっこを嫌う理由が「捕まりたくない」というのは、少し情けない気がしないでもない。「逃げ切る」という積極性が感じられない。うちの娘さんは大丈夫なんかいなと思っていたら、小学校に上がり、学童保育で百人一首を覚えた。これは一学年上の女子一人を除けば、男女学年関係なく圧倒的に強かったらしい。それは今でも続いていて大学で競技歌留多のクラブに入り、今も社会人で大会に参加している。「なんで百人一首だったの?」と尋ねたことがあったが「これなら人に負けないかもしれないと思えた」という返事だった。住む水、育つ水。鬼ごっこでの心配は杞憂であった。全国で五十位内には入ったが、クィーン戦の挑戦までは届かなかった。
さて、私は一見公明正大だが服従を前提とした、じゃんけんをしなければならない状況にはできるだけ近寄らないようにしている。が、もし仮にやらなければならぬ状況になって、じゃんけんで負けたら何に生まれかわろうか。もしくは、何に生まれ変らせられることになるのだろう? そんなこんな。今日は早い更新。
只今のながらCD
CANIS LUPUS / DARRYL WAY’S WOLF
by alglider
| 2009-07-05 15:12
| 短歌