口惜しくとも、我、この道を行く.....の巻
2006年 04月 10日
朱の盆さん顔でかっ♪現在地が分かりまへんがなぁ.....
ブログ仲間のメールで、アルコール依存症になって失ったものを、またひとつ思い出した。口惜しくもあり、有り難くもあり、やっぱり口惜しいことであるよなぁ。それは[そば]である。そばを食す優雅なひとときをなくしてしまった、ことを思い出した。私は仕事で柴田書店の『そばとうどん』の取材原稿を書いたぐらい[そば好き]だったのである。通だったのである。通通レロレロツーレロだったのである。それが、うううぅぅぅ.......じゃ、食べればいいじゃん、と横浜弁が聞こえてきそうだが、さにあらず、そばはただ食すものにあらず、なのだっだっだ.......
そば自体は、ずずっと素早く食すので、それほど時間はかからない。時間に限っていうとたわいない。その前が、そばを食す前が大事なのである。重要なのである。その前のないそばの時間なんて、愛のない前戯のないSEXであって、立ち食いそばはつまり風俗店になってしまうのだ。
まず、私の場合、そば屋には必ず昼下がりに行く(行った。過去形があぁ口惜しい)。そして、さり気なく酒の肴を頼む。季節もの、台抜き(天麩羅のみ)、鰊の甘露煮などなど、これを猫正宗ならぬ〆張鶴などでぐっとやる。ちびちびやっていると、陽が傾いていくのをほろ酔いのなかで感じる。陶酔、桃源郷である。そして、この心ここにあらずの境地から現実に戻す手段が[そば]なのである。ずっずっとそばをたくり、呼吸困難になったところを鼻から息を抜く。すると、そばのかおりが脳に浸透する。まだ陶然としているから、もう一枚食す。そのころやっと正気に戻り、外は逢魔ヶ時を迎えている、という算段なのだ。あぁ、これができぬ。
池波正太郎さん、杉浦日向子さん、全うされたあなたがたがうらやましい.....お茶の道、そばとお茶の道もあろうかと思ったが、茶道楽、茶貧乏という言葉が中国にはあって茶にはまると、これまた身代をつぶすという。こういった[のめり込みアイテム]はアル中には危険だ。私自身ヤバイと思う。どうすりゃいいのさ思案橋...
ここ2、3年、そば屋に通っていない私だが、毎年そば屋から[どうされていますか、たまには顔を見せてくださいな]と年賀状が届く。あぁ口惜しい....そうや、べっぴんのみゆきちゃんをそば屋に連れて行く約束もしていたのだった、かえすがえす口惜しい.....
話は変わるが、今日、摂津断酒連合昼例会の100回記念例会に参加した。遠方から参加した人から体験談が回っている様子なので、こりゃ当たるかな、と思っていたらきっちりご指名を受けた。話しているうちに、かってに話が進み、あぁ私はこうも考えていたのだ、と新しい発見をした。よかったのでござるるる.....記念例会だから紅白饅頭がお土産にでた。もちろんそば饅頭ではない。明後日、饅頭フリークのアル中ララバイさんにプレゼントする。グッジョブッ!
今日のながらCD
BACK STREET CRAWLER/PAUL KOSSOFF
今日の一文
明日こそわたしは渡るだろう
あの吊橋
ひとりづつしか渡れないあの吊橋を
思い出のしげみは 二月の雨にくれてやる
青空(一部) 大岡 信
by alglider
| 2006-04-10 18:36
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