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二つ曲がりの辻


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 弥生三月のかかり。曇天。午後、遅い昼食と散歩をかねてマンションを出た。しかし、数歩もいかないうちに、ぽつりと雨が落ちてきた。傘を取りに帰るのにそれほど手間がかかるわけでもなかったが、何だか億劫でそのまま歩いて行った。頭上には、春の陽光を待つ桜の枝が、投網を打ったかのように重っ苦しい雲の海の下に広がっている。また、ぽつりと木の芽おこしの雨がオレの額にあたった。

 昼めしといっても、食欲があるわけではなかった。最近ではよくて一日一食、ぶらり当てなく散歩する途中に見つけるそば屋に立ち寄り、文字どおり喉に流し込む程度だ。それも見つかればの話だ。駅前の商店街に出ると、酒屋でビールを買い、一気に飲んで、
 「今日は何に突き当たるだろう」
 と考えた。

 仕事を辞めて散歩は日常となった。永遠に徘徊を続けそうな不安をアルコールと一緒に飲み干しながら歩いていると、何かに突き当たり、突き当たったところで気づき、家に帰り着いている。そんな毎日が訪れた。その突き当たったものが、幾重もの壁となってオレを閉じ込めるときもあれば、今まで塗り固めて築いた壁を一瞬にして、打ち壊してしまうこともあった。

 ひと駅分の切符とビール二缶買い、郊外へ向かう各停電車に乗った。

 「雨の降っていないところまで行こう」

 車内はガラガラだった。携帯電話にひたすら謝っている三つボタンスーツの若いサラリーマン。高級を売り物にしているスーパーの買い物袋を下げた主婦。そして、オレの向かいには大きな籐の籠を床に置いて化粧を直している若い女。ひと車両に四人だけだった。
 ビールを飲みながら、ぽつぽつと斜めに突き刺さる水滴越しに、窓の外を眺めていると、オレの足に絡みつくものがある。それは一匹のマルチーズだった。どうも、向かいの女の籠に潜んでいたらしい。

 「ちーちゃん、だめ、こっちこっち。おじさん困った顔をしてるでしょ」
 六つの人間の眼と二つの獣の眼が、オレを見つめている。向いの女が再び「ちー・・・」と言った瞬間、オレはそのマルチーズを蹴飛ばした。
 「きゃん」
 と転がった獣を無視して、また外の風景に眼を遣った。

 サラリーマンはメールを打ち始め、主婦は吊り広告を読むふりをし、向いの女は獣に駆け寄った。ひとつの風景が車両の中にじわりと充満していく。次の駅でドアが開くまで、この空気は運ばれていく。網膜には土塊だらけの田畑、立ち並ぶ高圧電線の鉄塔、畦道を赤い傘をさしながら自転車を駆る女子高生、だれも待つことのないような小さな踏み切り。不思議と絶対性が混じる雨の風景が脳裏に映しだされる。そこには愛玩という自己膠着が這い入る隙はなかった。

 「この酔っ払い」
 と女は罵り、隣の車両へ移っていった。
 決して、オレが正しいなんて恥ずかしいことは言わないけれど、暴力はお互いさまだろ。見ているものが違っているときにはときどきこういうことが起こる。電車に乗ったときぐらい遠くを見ろよ、ねぇちゃん。

 県境のトンネルを過ぎると、嘘のように空は晴れていた。こんなこともあるのだ。山端の上に、サンドブラストを施したような大きく白い月が残っていた。次の駅で降りよう。
 その地は新興住宅地として再開発され始め、駅も新しくなったばかりのようだった。駅前のロータリーに「都心まで乗り換えなし、快速で40分。アメニティーライフを演出するガーデンタウン」との大きな看板がでていて、チベットの仏教寺院にあるような色鮮やかな旗が風にはためいている。駅前は整備されているが、看板や旗の、つい向こうには未だ古い町並みが続いている。なだらかな勾配のある道に沿って、商店が申し訳なさそうに肩を並べ委縮している。オレの足は自然とそちらに歩み始めていた。

 蚊取り線香の古い看板の残るよろず屋で、そば屋は近くにありませんかと尋ねると、にきび面したそこの息子らしい兄ちゃんが、斜め向いにある一膳飯屋を指さし、食事のできるところは
 「壽屋さんしかないよ」
 と言った。

 その壽屋は、やっているのかやっていないのか、人の気配がまったくしない。建て付けの悪い引き戸をがたんと開けると、黴の湿った空気と、冷えたセメントの土間にデコラのテーブルが四つ、奥の三畳ほどの部屋に婆さんがちょこんと座っていた。そばはともかく、酒にはありつけそうだった。
 塩豆を肴に燗酒を三合ほどやってから、婆さんに
 「ガーデンタウンってここから遠いの?」
 と聞くと、バスで20分はかかる山の中腹だという。じゃ、あの看板は詐欺みたいなものじゃないかと言うと、婆さんには聴こえていないふうで、
 「ここに兵隊さんがおったころは・・・」
 と一人でしゃべり始めた。

 ここに兵隊さんがおったころ。それはもちろんガーデンタウンのなかったころだ。当時「二つ曲がりの辻」という路地があったらしい。小さな地道がクランク状に折れて続いているらしいのだが、一つ目の曲り角に来ると、どの兵隊さんもその角を昔、見た気になるという。新しく赴任してきたばかりの兵隊さんもいつかどこかで、その辻を曲ったことがあるような既視感に囚われるという。その角を往くと昔の自分に出会う気がして立ち止まるという。思い切って曲ると、そこには三輪車が一台放置されている。どの兵隊さんも、その三輪車になぜか乗ってしまうのだった。そして、二つ目の曲り角で、また足踏みをする。その先を曲れば、今度は自分の未来に出会いそうな恐怖に襲われるのだった。そこで、二つ目の角を曲る者と引き返す者現れる。その分かれ目が、戦争での生死の分かれ目だったのだという。

 婆さんの話では、二つ目の角を曲った者が死んだのか、引き返した者が死んだのか、よく分からなかった。しかし、その「二つ曲りの辻」は、今のガーデンタウンのどこかに残っているかもしれないという。オレは慌てて勘定を済ませ、よろず屋に取って返し、缶ビールをバッグに詰め込めるだけ詰め、その分かれ目に向かうことにした。

 パステルカラーのおもちゃみたいな、あの小生意気なマルチーズの愛想みたいな家が延々と建ち並ぶ空間が「アメニティーライフを演出するガーデンタウン」だった。「快適な生活」を指向する人々にとっては、随分と怪しい人物と思われただろうが、既に酩酊に近いオレは太宰の描く主人公のように「大波に飲まれる内気な水夫」にはなれなかった。「二つ曲り、二つ曲り」と空念仏を唱えては、家々を心の中で蹴飛ばし、クランクの辻を探した。こんな出来合いの町に既視感も未来もへったくれもない。が、果たして、整然と区画割りされた新興住宅地の外れにそれはあった。

 崩れかけた石塀の残るその角には電信柱が一本立っていて、電線は薄雲に溶け込み、その向こうにあるはずの電柱は見えない。ふらつく足で一つ目の角を曲ると、三輪車は当然という顔をしてあった。躊躇はなかった。片足を三輪車のステップに掛け、もう一方の足で地面を蹴った。アクセルを回す。エンジンを全開にして、二つ目の角までの永遠を一瞬でたどり着く。光速の中で時間が赤く青く明滅し往きつ戻りつする。婆さんの語った生と死の境界線が入り交じり、風景がダリの時計のように歪む。光の霧の中を、兵隊さんが隊列を組んで行進する。あの婆さんの顔が娘に幼子に変容し、分裂し弾け、はるか彼方後方で霧散消滅してしまう。万年雪を一秒で、手のひらに震える一片の雪を一万年かけて溶かしていくような捕らえどころのない不確定な感情の流れ。ハンドルを握るオレの手は小さくなり、皮膚一枚で世界と対峙する幼児そのものだった。皺だらけの年老いた男とすれ違う。咳き込む老人の背中には見覚えがあった。刹那が永久に彼岸が此岸に、すべてが交換可能のように思われた。一つ目の角を曲り、どれほどの時が流れたのか知る由もなかったが、遠近法によって絞り込まれた一点から、これまで出会ってきた者たちの視線が放射されている。そこでは、視線が風景だった。見ることは見られることだ。その視線の風景の中にオレがいる。そして、オレも一つの視線となって、視線は風景となって、風景は光りの氾濫となって「二つ曲がりの辻」を折れる。

 ホーと鳥が鳴いた。目を細めて「二つ曲りの辻」の入り口に立ちすくんでいる自分がそこにいた。茫洋と酔っていた。一つ目の、二つ目の角を曲っても何もなかった。三輪車などあるべくもない。クランク状の路地を抜けると、ただ、整地を待つ野っ原が広がり、その果ては削り取られた山肌の断崖になっていた。その際まで行き、少し吐いた。涙がでて、風景が滲んだ。苦い液体が口中に溢れる。二重写しですべては静止し、自らは輝かぬ、擦り硝子のような白い月が浮かんでいるだけだった。

 帰りの電車の中で、オレは白濁した頭で、この電車に乗っている自分自身をずっと見つめていた思い出していた。それは辞めた小さな印刷工場に勤めていたときのことだ。二階のトイレから刺激臭のするだらだらとした小便をしながら窓の外を眺めると、送電線に肩を預けながらいつもこの電車が走っていくのだった。
 「どうして、オレはあの電車に乗っている自分ではないのだろう」と。
 最寄り駅近くの小さな踏み切りで、男の子が三輪車に乗って、この電車が過ぎるのを待っているのを見い出した。それは、その男の子がだれであってもかまわないのと同様に、その踏み切りで待つのはこの酔っ払いでもよかったはずだ。風景のあちらこちらに交換可能なオレが佇んでいた。

 もう一度「二つ曲がりの辻」に行ってみようと思った。
 その時、ホーと鳥がまた鳴いた気がした。
 薄情にも、新しい夜を待つ月は、もう消えていた。


 ―了―
by alglider | 2013-03-23 21:13 | 中中小説・詩

さびしさを糸でかがればかぎ裂きのかたちしてをり棘のあるらし


by alglider
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